鉄道唱歌 関西編 第58番 貝塚市・岸和田市・泉大津市に到着 「だんじり祭り」や様々な歴史のあと

鉄道唱歌 関西・参宮・南海編の歌詞(貝塚・岸和田・泉大津など)について、わかりやすく解説しています!

まずは原文から!

貝塚かいづかいでしかひありて
はや岸和田きしわだの城の跡
こゝは大津おおつかいざゝらば
おりて信太しのだくすも見ん

さらに読みやすく!

貝塚かいづかいでし かいありて
はや岸和田きしわだの 城の跡
ここは大津おおつか いざさらば
おりて信太しのだの くすも見ん

さらに読みやすく!

♪かいづかいーでし かいありてー
♪はやきしわだのー しろのあとー
♪こーこはおおつか いざさらばー
♪おりてしのだのー くすもみんー
(南海本線)
和歌山市駅→紀ノ川駅(旧・和歌山北口駅)→(旧・深日駅跡)→尾崎駅→樽井駅→泉佐野駅→貝塚駅→岸和田駅→泉大津駅→羽衣駅→浜寺公園駅→湊駅→堺駅→(大和川)→住吉大社駅→天下茶屋駅→なんば駅

※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
※正式名称は「鉄道唱歌 関西・参宮・南海編」です。記事タイトルの便宜上、このようなタイトル(関西編)とさせていただいております。ご了承ください。

泉佐野を出て、貝塚・岸和田・泉大津方面へ

列車はいま、南海本線和歌山から大阪・難波(なんば)へと向かっているところになります。

泉佐野駅(いずみさのえき、大阪府泉佐野市)を出ると、やがて

  • 貝塚駅(かいづかえき、大阪府貝塚市)
  • 岸和田駅(きしわだえき、大阪府岸和田市)

を過ぎ、やがて泉大津駅(いずみおおつえき、大阪府泉大津市)に至ります。

JR阪和線の駅でいうと、今どのあたり?

南海本線と競合・並行するJR阪和線(はんわせん)でいうと、

  • 東貝塚駅(ひがしかいづかえき、大阪府貝塚市)
  • 東岸和田駅(ひがしきしわだえき、大阪府岸和田市)
  • 和泉府中駅(いずみふちゅうえき、大阪府和泉市)

あたりのエリアとなります。

なお、

  • 和泉市(いずみし)
  • 泉大津市(いずみおおつし)

は、おたがい東西に隣接しています。

貝塚駅(貝塚市)に到着

南海本線・貝塚駅(大阪府貝塚市)
水間鉄道との分かれ道

南海本線・貝塚駅(大阪府貝塚市) 水間鉄道との分かれ道

水間鉄道との分かれ道

大阪府貝塚市(かいづかし)には、水間観音(みずまかんのん)という、立派な歴史あるお寺が存在することで知られます。

貝塚駅からは、水間観音へ向かうための水間鉄道(みずまてつどう)という列車が出ています。

貝塚駅・水間寺方面への乗換え口(大阪府貝塚市)

水間鉄道水間線・水間観音駅(大阪府貝塚市)

「水間観音」とは?

水間観音(みずまかんのん)は、正式には「水間寺みずまでら」といいます。

奈良時代に、聖武天皇行基(ぎょうき)さんによって造られたお寺になります。
聖武天皇と行基さんは、「奈良の大仏」を建てたことで知られます。

聖武天皇の病気を治したかった行基さん

行基さんは、聖武天皇が病気に伏しているところを何とかしたいと思いたったのでした。
そして、とある白鳥に導かれながら西へ西へと追いかけてゆき、大阪府貝塚市のあたりにたどり着きました。

水間の地にたどりつき、童子と観音さまに出会う

するとそこで、とある16人の童子どうじ(※)に導かれて、貝塚市の二つの川が交差する地域である「水間みずま」の地にたどり着いたのでした。

※童子とは、子どもの姿をした修行僧のことです。大体、一般的にその正体は、仏様・観音様であることが多いです。

ここで、行基さんは、なんとそこで観音菩薩かんのんぼさつに出会うことができました。
これが奈良時代における、行基さんの水間観音との出会いになります。

「16人の童子に出会える旅」

現代でも、水間観音駅から水間寺までの道中で、まるでこの行基さんが体験したような「16人の童子に出会える旅」を、擬似的に体験することができます。

それぞれの童子は、「厄除け」「無病息災」「豊作」など異なったご利益があります。

「観音さま」とは?

観音かんのん」さまとは、人々の苦しみや怒りの声などを聞き、幸せに導くありがたい仏様です。

なお「観音」という言葉はキリスト教の「福音ふくいん」と似ていますが、こちらは信者が聞くことになる「良い知らせ」「良い教え」のことを意味します。

岸和田駅(岸和田市)に到着

「だんじり祭」で知られる街

大阪府岸和田市(きしわだし)は、岸和田城が有名なほか、「だんじり祭」でも知られます。

南海本線・岸和田駅(大阪府岸和田市)

南海本線・岸和田駅(大阪府岸和田市)

「岸和田」の由来

岸和田」の地名の由来は、楠木正成の一族であった和田氏わだし(わだし)のうち、「岸の和田氏」という意味から付けられたといわれています。

」というのは、おそらく大阪湾のこの一帯のことをいうのでしょう。

岸和田城(大阪府岸和田市)

岸和田城(大阪府岸和田市)

「だんじり祭り」とは?

岸和田市と言えば、何といっても「だんじり祭り」が有名です。

だんじり祭り」は、山車だしとよばれる大きな神輿みこしのようなものを、大勢で引き(曳き)ながら練り歩きます。

「山車」とは?「神輿」との違いは?

山車(だし)は、車輪がついていて、これを人が引っ張ることによって動きます。

対して神輿(みこし)には車輪が無く、もっぱら人が担(かつ)ぐことによって動きます。

山車には、神様が宿るとされています。

※「曳」は、「引」の旧字体です。

だんじり祭の目的

だんじり祭りをはじめとする、「山車」を引き(曳き)ながら行うお祭りの目的として、一般的に神様をお呼びするために行われます。

それは、神様をお呼びすることによって、

  • 豊作
  • 商売繁盛

を祈るためのものです。

伏見稲荷大社の神様をお招きして、「豊作」を願う

岸和田のだんじり祭りの起源も、京都の伏見稲荷大社ふしみいなりたいしゃの神様を勧請かんじょうしたことからはじまりました。

伏見稲荷の神様はキツネの神様でおり、「豊作」や「商売繁盛」などにご利益(りやく)があります。

それが岸和田に派生・発展して、だんじり祭りにアップグレードしたイメージです。

伏見稲荷大社については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

岸和田城(大阪府岸和田市)

泉大津駅(泉大津市)に到着

南海本線・泉大津駅(大阪府泉大津市)

南海本線・泉大津駅(大阪府泉大津市)

かつては「大津村」だった

大阪府泉大津市(いずみおおつし)は、元々は(鉄道唱歌の当時は)「大津村」と呼ばれていました。

なので、歌詞でも「泉大津」ではなく「大津」となっています。

その後、人口が増えて「大津町」→「泉大津市」へ

大津村は、その後人口が増えて発展し、「大津町」になっています。

それがさらに人口が増え、市制の用件を満たしたために、「泉大津市」となりました。

つまり、「市」を名乗ることができるようになったのでした。
ちなみに「市」になるには、最低でも人口5万人など、様々な厳しい要件が必要です。

なぜ「大津市」ではなく「泉大津市」となったのか?

なぜ「大津町→大津市」としなかったのかというと、滋賀県の県庁所在地である大津市(おおつし)が既に存在したため、重複回避のために泉大津市」となりました。

大阪府南部のこの地域は、昔は

  • 和泉国(いずみのくに)」
  • 泉州(せんしゅう)」

と呼ばれていました。

また、「和泉大津市」としてしまうと、既に存在している

  • 和泉市

と混同される可能性があったため、「泉大津市」となりました。

かつて「和泉国」の国府があった、和泉市

大阪府和泉市(いずみし)は、元々は和泉国(いずみのくに)の国府(こくふ)があった場所になります。

和泉国(いずみのくに)とは、大阪府南部のエリアのことをいいます。

ちなみに、

  • 大阪府北西部は、「摂津国(せっつのくに)」
  • 大阪府東部のことは、「河内国(かわちのくに)」

といいました。
これは、奈良時代の律令制におけるエリア分けになります。

国府(こくふ)」とは、その国の政治の中心となる機関であり、現代でいう”都道府県庁”のようなものです。

駅名は「和泉府中駅」、市名は「和泉市」となります。
間違えないようにしましょう。

「菊水連隊」を前身とする、信太山駐屯地

信太山(しのだやま)は、泉大津市の東側にある、標高50m~80mの小高い丘です。

陸上自衛隊の「信太山駐屯地」

信太山には、陸上自衛隊の「信太山駐屯地(しのだやまちゅうとんち)」があります。

「駐屯地」とは?

駐屯地」とは、陸上自衛隊がその場に駐屯(ちゅうとん:留まって陣地を構えること)するための場所になります。

常に陸の陣地に本拠地を置くことになる陸上自衛隊には、「基地」ではなく「駐屯地」の用語を使います
ただし現代では、「駐屯地」と「基地」はほぼ同じような意味合いにも感じられます。

海上自衛隊・航空自衛隊は「基地」の語を使う

なお、海上自衛隊・航空自衛隊はその場を離れない(動けない)ため、「基地」という語を用います。

一方、先述の通り、陸上自衛隊に対しては「基地」の文字は用いられません。

この信太山駐屯地には、陸上自衛隊の「第37連隊」が置かれています。
「連隊」とは、全国の自衛隊の数あるチームの1つです。

第37連隊「菊水連隊」

そしてこの「第37連隊」は、通称「菊水連隊(きくすいれんたい)」と呼ばれています。
これは戦前から継承している名前だそうです。

「菊水」とは?

菊水(きくすい)」とは、楠木正成(まさしげ)をはじめとする楠木一家が用いていた旗の紋章のことです。

楠木正成は、戦前は「愛国心の象徴」とされてきました。
その理由は、足利尊氏(たかうじ)との戦いで後醍醐天皇を何が何でも守り抜こうとしたからです。

菊水」および楠木正成については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

「日本三大悪人」とは?

逆にいえば、その愛国心の象徴たる楠木正成を殺してしまった足利尊氏は、戦前は逆賊ぎゃくぞく国賊こくぞく(国に対して背く者)の扱いをされてしまっていたのです。

なので足利尊氏は、

  • 道鏡(どうきょう)
  • 平将門(まさかど)

と合わせて、「日本三大悪人」と呼ばれたこともありました。

道鏡とは?

ちなみに道鏡(どうきょう)は、奈良時代に僧侶の身(天皇の血筋を引いていない)でありながら「俺は天皇になる!」としようとした人物です。

道鏡については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

平将門とは?

平将門(まさかど)は、平安時代に関東地方で反乱を起こし、勝手に「新皇」と名乗って当時の朝廷や天皇に反抗し、鎮圧された人物です。

平将門については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

楠木正成の精神を受け継いだ、菊水連隊

以上、どれも初代・神武天皇(じんむてんのう)から続く”天皇の神聖な血筋”を脅かす存在だったのでした。
そのため、とにかく天皇を神聖化していた戦前では彼らは「逆賊扱い」されても、なんら不思議ではなかったわけですね。

少し話がズレましたが、このようにして戦前から尊ばれてきた楠木正成(まさしげ)の精神を、戦後も「菊水連隊」という名を引き継ぐ形で国防にあたっているのが、陸上自衛隊・信太山駐屯地の「第37連隊」です。

歌詞「降りて信太の楠もみん」

歌詞には「降りて信太の楠もみん」とあります。

これについて、私は最初

「信太山に名物の楠(くすのき)でもあるのかなあ?」

と思ったのですが、どうやらこの「信太の楠」というのは、戦前の陸軍から続く信太山駐屯地・第37連隊「菊水連隊」のことで間違いないかもしれません。

それだけ、楠木正成を尊敬する人は多いのかもしれませんね!
私(筆者)も楠木正成は尊敬しています。

次は、高石市・浜寺公園へ

次は、

  • 高石市(たかいしし)
  • 浜寺公園(はまでらこうえん)

方面へ向かってゆきます!

そして、間もなく堺市(さかいし)も近づきます。

ちゅうい!おわりに

この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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